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2013年8月31日 (土)

緑雨さんが止まらない

Dscf1257 タチコマトレーディングフィギュアver2
この子だけ写真ちいさかったー!

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斉藤緑雨特集、今回最終回です。
鏡関係の2節がイノセンスでは最初のほうと最後のほうで使われています。


最初のほう→「鏡は悟りの具にあらず迷いの具なり」


発言はトグサ
バトーと2人で所轄から事件を奪うような形で引き継いだとき、所轄で厭味を言われた後。
バトーの
「てめぇのツラが曲がってるのに鏡を責めてなんになる」
に応えて言いました。


元ネタ→”鏡を看よといふは反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み(たのみ)、自ら負うことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり(斉藤緑雨;緑雨警語:霏々刺々(ひひらつらつ)”


翻訳(犬味)→「鏡を見ろ」とは「反省しろ!」という意味である。だが本当に反省できる人が何人いるだろうか。人は鏡を見ても過剰な自信をもったり、ふさわしき人物と思えど最期まで反省することなどない。鏡は悟りの道具ではなく人を迷わせる道具である


この場合の鏡は”ミラー”の意味だったり”自分と似た人物”だったりする。
自分の鏡のような人をみて「反面教師」にしなければいけないのだが、そういう自分の至らない部分を気づける人は少ない。
鏡を見せたって「お、今日も完璧♪」なんて、出所不明な自信に満ちてしまったりする。
鏡はあるだけ人を良くない方向へ導くもんだ、とかいう意味でしょうか。






鏡関連2節目は大量のガイノイドとの交戦中に素子が言った台詞です。
何人か鏡を把りて魔ならざるものある。魔を照らすにあらず、造るなり。即ち鏡は瞥見す可ものなり、熟視す可ものにあらず


元ネタ→全く同じなので割愛(斉藤緑雨;緑雨警語:霏々刺々より)”


このあとのバトーの台詞
「感慨に耽ってるばあいじゃねぇぞ、残弾が少ねぇんだ」
ほんとうにそうですよね。
今なら「今そんな台詞、必要か?物量で負けそうなときに本当に必要なのか?」と素子さんに言いたい。
イノセンスにおける無駄な引用の一例です。


犬味翻訳しますと
”鏡を見て魔性を得ないものがあろうか、魔を照らす道具として鏡を用いるのでなく自ら作っているのだ。鏡はちょっと見るだけのものであり、しげしげと見つめるものではない”


自らの至らぬ部分を映す道具としてでなく、自惚れをつくりだすもの。
それが鏡
という位置づけみたいです。
イノセンスでの引用のされ方は”金太郎飴状態”のハダリの洪水に「魔をつくる」と掛けたものかと思います。ここでは素子もハダリタイプに乗り移っているので、自分と同じ顔した敵が次々でてくるのは「魔をつくる」ともいえるからでしょうな。


昔の記事ではニーチェの「深淵を覗き込むとき深淵もまたお前を覗く」って言葉に似てるよな、と書きました。
自分を振り返りすぎるのもよくない、という意味があるんじゃない?と思っていましたからね、当時は。
2節連続で見るとそれが妥当じゃない、ってことがわかりました。
単に「自分の姿を見ても結局反省に至らず過剰な自信しか与えないのだから鏡をみるとかあまりしなくていいよ」ということだったのですね。


人の振り見て我振りなおせ、とはいいますが、それがなかなかできない。
自分の行動の至らなさを皮肉、揶揄で反射してくれる人もいますが、それすら都合よく解釈する。
どこまでも業の深い、呆れた存在だな、っていう緑雨さんの諦めの2節でした。



使用例
緑雨さんの2台詞より、ゴーゴリの「てめぇのツラが曲がっているのに鏡を責めてなんになる」のほうが使い勝手がいいや!
誰かを責めたいとき、悪口を言いたいとき
自分に向かって使うのがいいんじゃないでしょうか
悪口陰口言ってると、ほんとうに顔が曲がってきます。
大概の人はそれに気づいても聞こえるようには言わないだけ
・・・面倒は背負いたくないので、い~わない、ってのはがぶさんだけですか?











蛇足

写真をみると何を考えていたのかうっすら映っていて、つい失笑ってしまう。
「あぁ。筒抜け」
だから写真は嫌いなんです。

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