« 半熟より固ゆでであれ | トップページ | 『すいませ~ん、巨人肩ロース1kgくださ~い』 »

2013年1月14日 (月)

高貴、とかいっても庶民ですからね、所詮

037

トコトコタチコマ;メガハウス

アイボールが大きすぎますが、ざっと見た感じ塗りも造型もよいほうかと思います。
未開封につき動きについてはわかりません。
多分、トコトコしてるんだと思います。

******



では昨日の続きをやります。





未成熟な人間の特徴は理想の為に高貴な死を選ぼうとする点にある。それに反して成熟した人間の特徴は理想の為に卑小な生を選ぼうとする点にある。





理想のために命を捨てることをなんとも思わない未成熟な魂と、理想のために人生を捧げる成熟した魂とを語ったものですが、当の本人シュテーケルはどちらにも肩入れしていないと思います。彼の言葉は分析学者の結論であり感情などは全く感じられないんだな。




ネットで確認したものを鵜呑みにすれば、ウィルヘルム・シュテーケルの生存期間は1868~1940のようです。
つまりオーストリア・ハンガリー帝国の末期から第二次世界大戦最中にあたります。
皇太子情死事件や皇妃エリザベート暗殺事件などに始まりやがて世界大戦になだれ込もうとする不穏な空気に包まれた時代に生まれ、二度目の世界大戦の最中に亡くなったわけで、その時代の人間であれば数多の人間が理想のために殉じ、また死なねばならなかった、殺された事実を知っていたと思われます。
妙に冷めた目で人の生き死にを語るのは、彼が精神分析学者であり、当時は個人の命の価値を論じるほど国家は安定していなかったためだと思います。
そのため、彼は単に分析を行いそれを発表したにすぎず、どちらがよいとか語るつもりはなかったと思います。
個人の自由や平等を語れるのは、国家の安定があるからだ、と改めて認識しますよ。




さて、その台詞を自身の作品で引用したのがサリンジャーで、さらにそこから引用したのが攻殻機動隊です。
彼は『ライ麦畑でつかまえて』のなかで、アントリーニ先生にこの台詞を引用させています。
アントリーニ先生は主人公ホールデン少年が感じた数少ない”感じのよい人”でした。
ホールデン少年は大して交流もなかった昔の恩師に自分で電話をかけて飲みに誘っています(少年はコーヒーですがね)。
先生は彼が危ういところにいるところを看破して、かの台詞をホールデン少年に授けるわけです。ホールデン自身も自分が危ないところにたっていることを感知していたものと思います。
アントリーニ先生はホールデン少年の残された小さな土嚢であり、我知らず彼に救いを求めたのではないかと思います。




さて、ホールデン少年が立っている”危ういところ”とはいかなるところか
作中から引用してみます。




『僕の感じでは、君はいま、恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいるような、そんな気がするんだけどね。正直言って、僕にはそれがどんな種類の堕落であるか・・・」


『それは、たとえば、君が三十ぐらいになったとき。どっかのバーに坐りこんでいて、大学時代にフットボールをやってたような様子をした男が入ってくるたんびに憎悪を燃やすといったような、そんな類の堕落かもしれん。(後略)』


『君がいま、堕落の淵に向かって進んでると思うと僕は言ったが、この堕落は特殊な堕落、恐ろしい堕落だと思うんだ。堕ちて行く人間には、さわってわかるような、あるいはぶつかって音が聞こえるような、底というものがない。その人間は、ただ、どこまでも堕ちて行くだけだ。』




学生時代に花形だったようなやつに出会うと頭の中で何度も切り刻むような思考をもったり、少しましなところでも些細なことでキレてしまうような人間になりそうな予感がする、と先生は言います。
そういった堕落である、と。
洞察力のよい先生はしかしながら上手い言葉を見つけられず彼のイメージを苦慮しながら伝えていきます。
ホールデンは今、そういう人間になりかかっているのだと。




『世の中には、人生のある時期に、自分の置かれている環境が到底与えることのできないものを、探しもとめようとした人々がいるが、今の君もそれなんだな。いやむしろ、自分の置かれている環境では、捜しているものはとうてい手に入らないと思った人々と言うべきかもしれない。そこで彼らは捜し求めることをあきらめちゃった。実際捜しもしないであきらめちゃったんだ。わかるかい、僕の言うこと?」



ホールデンが不安定な場所に立っている理由が”求めるものがとうに手の届かないところにあって諦めた果てに生まれたものであること、手に入らないと思ってしまったときに生まれた失望”であることをアントリーニ先生は説きます。


「しかし、僕には、君が、きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で、高貴な死に方をしようとしていることが、はっきりと見えるんだよ」


失望した人間はやがて世界を憎む。そして自身の命は軽くなりなんらかの形で死を選ぶ。
言葉で説明しがたいけれども、目の前にある淵がどんどん暗く深くなっていきそうな予感。
説明しうる言葉を見つけられぬもどかしさのなか、アントリーニ先生はかの言葉を引用し書付をホールデンに手渡します。




未成熟な人間の特徴は理想の為に高貴な死を選ぼうとする点にある。それに反して成熟した人間の特徴は理想の為に卑小な生を選ぼうとする点にある。





なんとかホールデンに伝えようとしたアントリーニ先生の意図をホールデン少年は感じ取ることができた。
それはなんとなくであり、それで充分だった。
彼はその書付をずっと持っていて、精神分析医のもとに行き高貴な死を迎えることはなかったのだから。
愚劣なことのために命を捨てることはなかったのだから。






引用が長くなって申し訳ないのですが、ここまで書かないとライ麦畑で引用された際の”未熟な魂”の扱いが説明しがたくやむをえず。
上述のようにシュテーゲルの生きた時代は戦争と革命の時代であり、サリンジャーや現代日本の我々とは個人のありようとか人の命の価値観が全く異なるということを踏まえないといけないからです。
いまの日本ではサリンジャーのような使い方のほうが向いているかもしれません。



シュテーケルの時代は生き残るのに精一杯と言う人がほとんどで、腹が減ってもなお理想に殉じる人々を称して彼は”(自分の美学に沿った)高貴な死”と書いたと思います。
サリンジャーの作品では自身の限界を感じたとき、世界が自分に向いていないと思ったときに声高に”僕は失望した!だから死ぬ!”と叫ぶときそれは果たして高貴な死といえるのか、と疑問を呈しています。
彼に言わせると、未成熟な人間の特徴はきわめて愚劣なことのために高貴(だとおもっている)死を選ぼうとしているです。
未熟というよりも浅はかでナルシスティック。
それがどんな巻き添えをつくろうとも構わない、なんせ個人の自由だから、と言い切るような浅はかさには高貴の欠片も見当たらないと、いうことでしょうか。




成熟した人間の生き方については彼は言及していない気もします。
もしもサリンジャーが”成熟した人間と言うのは卑小な生き方を疑問なく享受するものである”としたならば、彼はアントリーニ先生にこんなことは言わせないでしょう。



『いったんヴィンスン先生のたぐいを通り抜けてしまえばだ、その後は君の胸にずっとずっとぴったり来るような知識にどんどん近づいていくことになるーもっとも、君のほうでそれを望み、それを期待し、それを待ち受ける心構えが必要だよ』



感受性を豊かにして常に磨き続けることをすれば決して卑小な生には至らない。
もっとも、小さな幸せを”卑小”と断罪するというなら、あえてそうよばれることを受け入れよう。




蛇足


ライ麦畑~で好きなところ

アントリーニ先生がかのシュテーケルの言葉を手渡した後こう伝える。


「もし僕が君に何かを書いてやったら、君はていねいにそれを読んでくれるか?そしてそれをしまっておいてくれるか?」


くれぐれも、よくよくみておくれ
何度でも見ておくれ
そういうかのように先生は念を押してホールデン少年に台詞を渡す。
そして彼はこう続ける。


『君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない』


『もし君に他に与える何かがあるならば、将来、ちょうどそれと同じように、今度は他の誰かが君から学ぶだろう』



世界に失望した人間は君が生まれる前から何万人といる。
今いる世界をちょっと超えたら違う世界が見えてくる。そのとき同じように失望した人間に君は何かを与えられるだろう。
だから、よくよくみておくれ


彼はホールデンが転がり落ちるのを防ぎたいと思った。その心遣い、親切な人に触れたことがホールデンを少なくとも高貴な死とやらから守ることになる。
世界は自分に向いてない、と思ったときにほんの小さな親切がひっかかり崖から落ちずに済むこともあるということ
人の心遣いって沁みるよねぇ



傷ついたときほど、人には親切、言葉遣いは丁寧に、礼儀正しく振舞えよ、と。
がぶさんは、自分がしょぼんとしたときは敢えてそうする。
なぜかそうすると、誰かが親切にしてくれるので、回復が早いのだ。
これほんとう。





蛇足2

アントリーニ先生は、実に洞察力があるけれども、困ったクセもある。
彼はホールデンを自宅に泊めるのだが、夜中に彼が目覚めるとアントリーニ先生が自分の頭を撫でていたのだ。
これにびびって、ホールデンは先生の自宅を逃げ出した。
まぁ、そりゃ逃げるよな。
裏心があって親切にされた、と思うとそいつは更に傷つく。
しかし、彼が先生の書付を持ち続けたってことは、まだそれに縋っているということでもある。
冷静に考えればホモの餌食にするつもりで優しくしただけと言う見方が妥当だけれども、今まで彼にはそこまで優しかった人はいなかったのだ。
傷つくけど、それでも先生の言葉はホールデンのよすがになったんだと思う。

不安定な少年を手懐けて、いいようにしようと思っている汚い大人であるとするならば、アントリーニ先生は、作品中に溢れる世の中ってのは嘘だらけでインチキで、まったく穢れてるよな、という世界観の一端でもある。
先生のことを「単なる子供好きなのかもしれないし」と弁明してあげているのは、ホールデンは先生の”良い人”の部分を否定する気はないという気持ちでもある。
実際、「あの優しさはみせかけだったんだ」と言い切れる決定的な事件がない限りホールデンは彼の書付を捨てることはないだろう。
先生が小児性愛者であるならば許しがたいことであり、そうなら彼はいたたまれなくなる。
彼には”感じのいい人”でいてもらいたい。
そこまでホールデンから奪う必要もないんじゃないだろうか。

|

« 半熟より固ゆでであれ | トップページ | 『すいませ~ん、巨人肩ロース1kgくださ~い』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 高貴、とかいっても庶民ですからね、所詮:

« 半熟より固ゆでであれ | トップページ | 『すいませ~ん、巨人肩ロース1kgくださ~い』 »