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2012年10月13日 (土)

キムさん、いまいちです

Dscf1125

メガハウス;パーフェクトピースタチコマ
付属品をつけずに撮影したものはあげてなかったので載せてみる。
ぐったり、で有名な一品ですが脚の角度しだいでは立てるのだ。

本日は、キムさんのお言葉集を載せてみる。
難しい言葉遊びの羅列で、イノセンスをわかりずらくしている一因。
映画見ただけでは全くわからないので、イノセンス絵コンテ集を参考に台詞を飲み込んでみよう。
消化するかどうかは別問題。
とうきびだって、そのままの形ででてくるんだから消化しなくたっていいんだよ。
とうきびは消化されるために焼かれたり茹でられたりしたわけではないのだから。
食ったからには100%吸収する、なんて強欲でもエコでもないんだから。






・・・・・・それが事実なら無粋な話だ。
人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんて奴の気が知れんよ。

真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。
崩壊の寸前に踏みとどまって、爪先立ちを続ける死体・・・・・・






キムさんの館にて。
トグサが「人殺しをやらかした挙句に自殺するくらい」よくできている人形=暴走ハダリのことを語ったことに対するキムさんの感想。
絵コンテでは”醜悪な人間を模造しようなんて”となっているので、人間に近づけることをよくないものとしています。
魂を所有することは却って美しきものから離れてしまう、との見解のようです。
魂を手放し、意志も自意識も持たない死体のような生身の人間が美しい人形だと。
バトーが感慨も持たず、寝たきりで肋骨の浮き出た義体に住んでるキムさんを評して「電脳化した廃人に成り下がる、それが理由か」と言うように、キムさんは理想に近い生き方をしているようです。
しかし幸せになれてないところが屁理屈こねるおっさんの悲しいところ。
理想から圧倒的に遠いところに来てるのは、そういう理屈で自分を丸め込もうとしてるからじゃないですかね?




人間は所詮、その姿や動きの優美さにおいて・・・いや存在においても人形に適わない。人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらし、そしてその種の完全さは意識を持たないか無限の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない。





人間は造詣の美しさどころか、自意識を持ってる時点で人形には適わない、っと。
自意識は檻のように、認識能力を制限するっと。
素子さんが「私が私であることを認識するためには・・・うんぬん、そしてそれは一つの制約に押しとどめる・・・うんぬん」いって、自分が自分である意識をもつことがある種の監獄のように語ったことがありました。がぶさんの夢でなければGISで言ってました。
それに近いことだと思いますがね。
自意識とか自己認識とかを起点にしているために、認識域は狭められてしまう、とかいうんですか。あーそーですか。


・・・でも、素子さん、マトリクスの向こうに行ったって、未だに素子さんのままじゃないですか。あなた自意識の塊じゃないですか。それどころかバトーに拘ってるじゃないですか。
状況証拠から、「自意識捨てたら上部構造に行ける」仮定は否定されたので、この自己認識論はキムも素子も間違っているみたいですね。


「あー!悩んで判ったようなこと言ってた自分が恥ずかしい!」


素子さんがマトリクスの向こうで叫んでるわ。






・・・シェリーのヒバリは我々のように自己意識の強い生物が決して感じることのできない深い無意識の喜びに満ちている
認識の木の実を貪った者の末裔にとっては神になるより困難な話だ






動物は人間ほど自分が自分であることを認識しないために、喜びに満ち溢れている、っと。ロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの詩「ひばりに寄せて」に寄せて語る。
まー、あれだ。
「凍える土に巣から落ちたひな鳥は自分を憐れんだりしない」
ロレンスの詩ですね。「自己憐憫」というG.Iジェーンの最後にでてくるあの詩ですね。
動物が自意識がないために喜びに満ちている、とか言う前に自己憐憫をやめてみればいいと思う。キムが屁理屈こねてる根源は自己認識のせいじゃなく、認識しようとして自分を憐れんでるせいだと思う。それやめたら動物に近づけるんじゃないかね?
「人形に入って死んだふりをする、それが理由か」とバトー。
死んだ振りするより理想への近道だよ、キムさん。





未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや、と孔子様もいってるぜ。





”生命の定義も流動的なのに死の定義なんてできないだろ?死んだふりというのは正しくないな、なんせ死と言うものが定義できないんでね”みたいな。
あー、鬱陶しい。





死を理解する人間は稀だ。
多くは覚悟でなく、愚鈍と慣れでこれに耐える。
つまり、人は死なざるを得ないから死ぬわけだが・・・





「生身の人形は死を所与のものとしてこれを生きる」とはバトーの言葉。
魂がないので自己認識がないので生きると同じように死ぬこともできる。
捨て去ることに未練も後悔も悔恨も恐怖もない、と?
人は死を受け入れるのではなく、逃れるすべが無いから流されるがままになっているが、生身の人形は生きている理由と同じくらいに死を受け入れていると?
それほど、死が恐ろしいならいっそ目を瞑り耳を閉ざし口を噤んで・・・・・・






外見上は生きているように見えるものが本当に生きているのかどうかと言う疑惑
その逆に生命のない事物がひょっとして生きているのではないかという疑惑
人形の不気味さがどこから来るかといえば、それは人形が人間の雛形であり、つまり人間自身に他ならないからだ。
人間が簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないか、という恐怖。
つまり、人間と言う現象は本来、虚無に属しているのではないかという恐怖。






「いい加減仕事の話しようぜ」とはトグサの言葉。
どこまで自己評価が高いのだろう。人間が至高の存在である、が前提のその論理にうんざりする。
がぶさんの犬理論ではな、人間は簡単な仕掛けと物質でできているものだよ。
仕掛けに仕掛けが重なった大層よくできたカラクリだよ。
だがカラクリが虚無と同一って根拠はどこにあるのだね?



臓器や膜や器官はカラクリだし、それを構成する細胞はさらに小さなカラクリだ。
彼らの自己認識は人間ほど強くないとは思う。
細胞たちは、究極に栄養が足りなくなると「もうだめだ」と思った奴が自己崩壊して別の細胞に自分の栄養成分を残す。遺産みたいに自分の構成物を放出する。でも何の感情も無く感慨も後悔も無く、冷徹に自死する。そして受け取る側も何の感慨も無く栄養素を利用してるからだ。
細胞はそうするべく生まれたからそう働き消滅するだけだと思う。



人間が国や世界というやつの一つの細胞でしかなくて、消滅することが哀しいと思うのは「自意識が邪魔をして」受け入れきれないのだ、とかいう意見は理解できる。
人体の最小単位たる細胞に魂がないのなら、人に魂なんてものがあることすら幻想ではないか?という論理も可能だろう。
だがこのカラクリには確かに自意識と、脳の作用だけではなし得ない業が備わっている。
自意識をもっただけのカラクリ、それは虚無ではないのだよ。
簡単な仕掛けと物質に還元されるけれども、仕掛けと物質の間には、虚無ではなく空間があるのだよ。
お部屋があるのだよ、魂の住む部屋が!・・・・・・とかいうと寒いのでやめる。






生命と言う現象を解き明かそうとした科学もこの恐怖の醸成に一役買うことになった。自然が計算可能だという信念は人間もまた単純な機械部品に還元されるという結論を導き出した。





「人体はまた自らゼンマイを巻く器械であり、永久運動の生きた見本である」はバトーの言葉。キムの話に感銘を受けたわけではない。ド・ラメトリの言葉を引用したに過ぎない。
カラクリに魂は存在しないと定義するから虚無感に襲われて変な想像しちゃうんじゃない?
万能綰一心事って世阿弥も言ってるぜ?
稽古しないから頭でっかちになってるよー、キムさん。






完全なハードウェアを装備した生命と言う幻想こそがこの悪夢の源泉なのさ





機械、結構。
命なら人形にもあるぜ?
人形は顔が命です、って人形の久月が言ってるし。
顔が命って吉徳も言ってるし。
「神は永遠に幾何学する」とかプラトン引用してまで応えんでいいよ、バトー。
愛があってのプラトンじゃないのか?よく知らんけども。






ここまでキムさんのお話を聞いてみて、がぶさんはキムさんの言いたいことを以下にまとめる。






「人間って空っぽの器に自意識ばっかり発達した醜い存在ッすよ。狭いとこから見てるから認識力も低いし、死ぬとか受け入れられないし。もう私人形になりたいっすよ」





・・・・・・そろそろ仕事の話しないか?
もういいわ、あんたの御託は聞き飽きた。
バトーさんもこの意見に賛成だと思う。
「俺とお前とじゃ履いてる靴が違う」ということだ。

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