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2012年10月22日 (月)

せんちめんたるじゃーねー

Dscf1189


既出?
ウチコマプラモ・未組み立て


ウチコマがピースサイン出してるように見える。いいね、君いいよ。
ついにウチコマも個性を獲得したか・・・(感慨)
バトーさんがニカっ!て笑ってればこのカットはいい感じだったのにねぇ。
無駄にシリアス。

ヴィンランドサガのトルケルみたいなキャラクターがバトーさんには似合ってると思うんですがねぇ・・・・・・ま、犬の好みなんて監督たちにとっては関係ないものねぇ。
本日はイノセンスにおけるセンチメンタルなバトーの発言を一考。






思い出をその記憶と分かつものは何もない。そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは常に後になってからのことでしかない。主時間はセーブ不能だから辛いな。電脳化して外部と記憶を共有した以上、必ずついてまわるツケだ。
(バトー)






若干判りにくいので、犬目線で発言を分解、消化





思い出=感情や願望により補正される過去の出来事
記憶=感情や願望以外により補正される過去の出来事






と、まぁ。
I.Gさんが、そういう風に用語を使い分けている、と仮定。
そうでないと話が進まない。





”思い出補正が入ったいわゆる「メモリー」ってやつは第三者的補正の入る記憶とは別もんなんだが、思い出してる間はそれが自力なものか他力なものかは判定できない。
あとから何らかの情報が現れて初めてわかるもんだ”





前半はそんな感じ?
記憶自体が曖昧なものでいいの?、っていうことはこの際うっちゃっておいてね。





主時間=物理現実と同時進行で進む時間




と、仮定して
セーブ不能、とはつまり時の流れは止められない、ということ。
「時間よ、止まれ!」ができないので記録するしかない。
記録は「振り返って」みるものだ。
自分の主時間と同時進行ではないので、セーブしたことにはならない。
この主時間だけが物理現実を反映する。




外部と記憶を共有したツケ=自分の脳以外に記録する部分があるので、思い出補正された情報と外部記憶に保管された情報とが異なって混乱してもしょうがない





主時間がセーブできればそのときに改ざんはないので、正しい情報が得られる。
しかし、記録を巻き戻してみる手法でしか確認はできないので、思い出=感情補正が入ったものか、記憶=第三者の手が入った可能性の或る情報なのかわからない。
・・・・・・とかいう意味???
まーどっちも補正が入ってるから主時間の再現は永遠にできない、ってことだよな。




『ツケ』という単語を使うのは、電脳化したことでデメリットを得たということだ。
ってことは外部『記憶』を得ることはデメリットを含むってことだ。
だから『思い出=事実に近いことで擬似ではない』と解釈しないと筋が通らない。
無茶な論調であるが、そういうことにしよう。
どうも、このへん言葉遊びが過ぎて明瞭に理解できないんだがな。
ま、それが『イノセンス』だよ。





で、犬解釈

”主観的補正の入った過去の情報と第三者の介入のあった過去の情報とを区別することは難しい。それはあとで別の情報が入ったときに整合性が取れるかどうかでどちらだったか判るものだ。絶対に改ざんのない物理現実はあとから振り返ることができないから辛いな。特に外部から擬似記憶を植え込まれる可能性の或る電脳化した状態ではリスクは更に高くなるのはわかっていたことだがな”





記憶=正しい客観的情報
思い出=主観的嘘情報
と、解釈するとこの辺はかなりこんがらがる。
ここ、逆なんだ。
一般的に解釈される「思い出」と「記憶」の価値が攻殻では逆になってる。
”擬似記憶”は、攻殻の世界では普通だってことを前提にこの台詞を呑みこまにゃならんのだな。
この世界では「思い出こそが記憶なんてものよりも優位」ということになってる。




一般的に思い出より記憶のほうが客観的で正しい、とか思われがちだけどそこが違う。
人の記憶ってのは物理現実を100%反映したものでない、ということを前提にするとこの台詞は飲み込みやすい。





「そりゃ、思い出とか・・・・・・」





SAC#24で地下から逃走するバトーが素子に言った台詞だ。
バトーが使った思い出、という言葉こそ「主観的補正の入った過去の出来事のほうが信用できる」と暗に言っていたのではなかろうか?
所詮、どこにも事実なんてものはない。
あるのは主観的か第三者的介入のあった補正後情報でしかないが、”まし”なのは思い出のほうだろう、と。






バトーは自己補正の思い出はウェルカムみたいです。
センチメンタルだよな。
ドライになれー、ばとー。







2012.10.23改訂
余計な部分であるから掲載記事を割愛しておいた。
以下の部分は週刊誌の余白に書かれたもの程度にしとこうと思うの。




正しい情報、客観的情報、客観的事実
そういうものがここには存在しない。
唯一あるのは主時間だけでそいつは手元には残らない。
外部記憶というものを導入した時点で擬似記憶を入れ込まれる可能性が生まれる。
情報補正は自分だけでなく自分以外のものにも可能になる。
ま、電脳化されたらそうなりそうですわな。
では自前の脳みそだけの人はそうじゃないのか?



思い出補正がきつすぎて、数年後に出会った思い出のあの人、あのキャラ、あのストーリー
それら全てに「こんなんだっけ?」と思うことも多かろう。
幻滅!思い出ってきれいなままではいられない!
諸行無常を感じるわけだ。
思い出ってのはそんなもんだ。



確かに思い出は補正されている、しかし記憶も補正されているのだ。
たちの悪いことに記憶のほうが正しいと思っているから「複数の第3者からの繰り返す否定」がなければ疑問にも思わない。
逆に肯定されればそれが間違った情報であっても信じ込むんだろう。
否定され続ければ自分の記憶のほうが正しい情報だったとしても嘘だったか?と思うのだろう。



相手の記憶を改ざんしようとする意図の有無はこの際必要ない。
客観、って言葉自体が第三者の主観的考えであるんだから。
公平とか公明正大を望む心は忘れてはいかんが、改ざんのない主時間を再現するなんてのはむりむり。
どうしても記憶勝負したいときは、まじケンカするしかない。
自分は正しいと示したいなら、殴りあいで黙らせるか、合理的な疑いの余地のない証拠をもってくるしかないけど、思い出とか記憶というものにそれだけの価値があるかは疑問。
自己主張に生存がかかった場合以外は囚われないことのほうが大事だ、と思う。



あとで幻滅しようともそのときのときめきはなかったことにできないんだから、思い出でもよかろう。
どっちにも補正が入っているんだから思い出でも記憶でも、どっちでもよかろう。
あとでその補正を楽しめるかどうか、もしくは、違いがあることを初めから理解することが長生きの秘訣だろう。
あとでショックを受けるより、精神のバランスから考えてそれが賢い選択だ。

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